暮らしのなかのお菓子

羊羹と侘び茶

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茶の湯を大成した千利休のことばを伝える書物に『南方録』があります。その冒頭には、次のように書かれています。

宗易の云ふ、「小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て、修行得道する事なり。家居の結構、食事の珍味を楽しみとするは、俗世の事なり。家はもらぬほど、食事は飢えぬほどにて足ることなり。これ仏の教え、茶の湯の本意なり。…

これを現代語に置き換えると次のような意味になります。

千利休曰く、「(いわゆる侘び茶とされる)小座敷の茶の湯は、まずは仏教の精神によって繰り返し学び、最終的な境地を理解するものです。立派な住居や建築空間や珍しいグルメ嗜好などは、仏の教えの目指すところではありません。それらは世間のわずらわしい俗事に過ぎないのです。
家とは雨漏りで濡れてしまうことがない程度でいいものであるし、毎日の食事というものは、飢えない程度で充分なのです。これが仏の説いた教えであり、茶の湯の根本精神なのです……」

羊羹とは当初「羹(あつもの)」のことでした。「羹に懲りて膾(なます)を吹く」のことわざ通り、とろみのある肉のスープです。

基本的に仏教では肉食をしませんので、日本では次第に、肉の代わりに小麦や小豆を練って蒸し、スープに入れた見立て料理に姿を変えていきました。

その後、茶会の点心(食事がわりにとる間食)となり、小豆に葛粉や小麦粉を混ぜて蒸し、甘葛を加えたお茶菓子として饗されるようになりました。これがいわゆる「蒸し羊羹」の原形と言われています。

豊臣秀吉が聚楽第に移ったころには、茶事あるいは諸侯への引出物に多く使われるようになり、秀吉が大変愛用賞味したと言われています。

この蒸し羊羹を土台として、寒天を使った羊羹をはじめにつくったのは、京都伏見の鶴屋(現 総本家駿河屋)と言われています。駿河屋は万治元年(1658年)に、寒天を使った新しい羊羹、いわゆる「煉羊羹」の製法を確立しました。

駿河屋はもともと饅頭屋でしたが、その頃から羊羹に重点を置いて、羊羹屋として名を上げました。この駿河屋の羊羹が江戸に伝わり、その後江戸幕府の時代とともに日本全体にひろく普及するようになりました。

近年、羊羹は保存食や非常食として重用されています。

もともとは侘び茶の背景から生み出されたゆえに、飢えない程度、すなわち少量で充分な満足感を得られるものだからでしょう。禅宗とともに進化した羊羹は、日本独自の文化の結晶であり、茶の湯の精神とともに歩んできたのです。

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